十輪寺は山号を延命山とし、臨済宗で約700年前に開山されました。

今も木部の集落の北に一堂が残っていますが、残念ながら、建物は朽ちており、原形をとどめていません。

御霊は伊陸門前地区にある臨済宗「高山寺」に移され、そこで管理されています。

まだ建物の形があったとき

この寺は時とともに拡充され、七堂伽藍や五坊が造られたのですが、その五坊のひとつ霜降段薬師坊には次のような話が残っています。
※ 坊=僧房、または寺院を敬っていう言葉


昔、大内義隆の家来に頼広五郎左衛門という者がいた。


義隆が死んだ後、逃れて柳井の琴石山に隠れ、さらに伊陸村の木部の周治原へ落ちて来た。


そして霜降段薬師坊を建てて信仰した。


昔は落ち武者でも、僧となって仏門に入れば追討を受けることはなかったためであろう。


五郎左衛門の刀を埋めたところを「刀森」といい、今の周治原の大師堂がある場所が、それと言われている。


十輪寺の堂内には、仏像が三体安置されている。


中央は、人の寿命を守る「延命地蔵」と言われ、短命での逝去が続いたり、後継ぎが早世した家に信仰が多い。


右に置かれているのは、行方知れずになっても舞い戻ってきた観音像である。


あるとき土地の男が、観音像の彩色を依頼するため十輪寺の境内で発掘された三個の壺に入った金と観音像を持って京に向かっていた。


ところが運悪く、途中で盗賊に襲われて男は殺害され、観音像は海に投げ捨てられたのだが、漂流し、岩国の新湊に流れ着いたのだった。

その後、
「周防の十輪寺に帰りたいと像が申されるので・・」と、柳井の古物商の新兵衛が像を拾った人から貰い受け、
その話を聞いた伊陸木部の住民が、新兵衛から譲り受けた。

そして、観音像は漂流の末に、元の十輪寺に舞い戻り、三日三晩供養されたという。


師は幕末から明治初年まで住んでいましたが、伊陸の隣の祖生なめら出身でした。

学識も豊かで、寺子屋を開き土地の若者や子どもの教育に当たりました。


また、師は八卦にも長じ、各地から占って貰いに来る者も多かったそうです。


師の墓は、十輪寺の後方の山に今も残っています。