今から1300年ぐらい前のこと、どうしたことか氷室池(ひむろいけ)の周りが急に闇にとざされ、池から出た三すじの光りが雷光のように走って空へ消えた。
「どうもない普通の池のはずじゃが、たまげたのう。いなずまが池の底から走り出た。」
「さかさいなずまとは、聞いたことがない。なんであたりが闇になったんか。」
里人は降ってわいた恐ろしさにどうしたらよいかわからなかった。
「のんきな龍が、うっかり天からこの池に落ちこんだのかのう。天から見たら美しい池はいっぱいあろうに。」「龍が舞いおりたのなら、早いうちに手をうたぬことには。」相談の結果、大和国大峰山(やまとのくにおおみねさん)の修験者(*)前鬼の苗斎(びょうさい)に西下を請い、祈祷(きとう)してもらうことに決まった。
祈祷はききめがあり、それからは池から目を射るような光がたちのぼることはなかった。里人はいたく喜んで、苗斎たち七人の修験者にずっと前谷(今の舞谷)にとどまるように頼んだ。
ところがどうしたことか、七人がすんでいるにもかかわらず、再び怪異が起こりはじめた。
「これはどう考えても龍のしわざとは思われん。」
里人たちの不安に答えて、修験者たちの祈祷はさらに熱がこもったが、怪異はいっこうにおさまる気配はなかった。
困り果てた村人たちは、鎮守府(ちんじゅふ)を通じて朝廷に訴え出たところ、周防国(すおうのくに)の国司が防府へ下向の際、「伊賀路(いがじ)」に立ち寄って事実を調べ、怪異を調伏(*)することになった。
下向してきた国司は氷室岳(ひむろだけ)を仰ぎ見て、
「これぞ周防の富士の山、めでたや。」
と賞賛した。元明天皇の和同4年(711年)のことであった。里人は国司のことばをありがたく思い、氷室岳の八合目(堂屋敷)に、富士山頂の浅間(せんげん)神社の祭神である木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の神霊を勧請(かんじょう)し、国司持参の勅歌を奉納した。
こほりにし氷室の池も冬ながら
こち吹く風にとけやしぬらむ
勅歌に感応したものか、里人を悩ましていた怪異はぴたりと止んだ。氷室池はまた普通の静かな山の池にもどった。修験者たちは新たな修験地を求めて東の国を指して去っていった。
社殿は、貞和二年(1346年)に氷室岳堂屋敷から現在の社殿後方の森の中に移され、さらに永正5年(1508年)に現在のところに遷宮された。氷室池はその一部が境内に残っている。氷室岳からわき出る水がこの池に流れこみ、昔からどんな旱魃(かんばつ)があっても池の水はかれたことがないという。
(出典:「市立柳井図書館叢書第五集 柳井昔ばなし」より)