伊陸地区における国営ほ場整備事業の実施に先立ち、平成30年度に遺跡の有無を確認する試掘調査が行われ、いくつかの水田から遺物片や柱の跡と見られる遺構が検出されました。このことにより遺跡の存在が明らかになり、調査が進められてきました。今年度は令和3年8月31日から約半年かけて、伊陸盆地の北西と南西にある2つの遺跡の調査が行われました。
令和3年12月21日(火)伊陸小学校3・4・5・6年生は、伊陸盆地の南西部の松成東遺跡の発掘現場見学と発掘体験をしました。
「遺跡発掘」と聞いてもピンとこない子ども達のために実際に埋まっている状態を見せていただき、見つかった小さなかけらを繋ぎ合わせて形になる事などを教えていただきました。そして3・4人のグループに分かれて、作業員さんに教えてもらいながら実際に掘ってみました。
土を削っていると土の色が黒っぽい場所があります。その場所に遺物が埋まっている可能性が高いのだそうです。また土の硬さも違い、掘っていると硬い土にぶつかります。土の硬さによって穴の大きさや深さが推測でき、遺物が出て来た一番下の地層により年代が分かるそうです。また、作業員さんからは石と土器の見分け方なども教えてもらいました。小さなかけらを見つけると「あったー!」と声を上げ、作業員さんに「お皿かもしれんね。」と言われるとみんな集まって興味津々で覗き込んでいました。磁石がくっつく鉄滓(鉄くず)を見つけたり、当時の炭が混ざったようなものを見つける子もいました。自分たちが住んでいる地域の昔に触れ、とても貴重な体験をすることができました。
「片山平遺跡」と「松成東遺跡」の説明会がありました。
発掘調査が終わった2月4日(金)、新型コロナウィルスの影響により作業員さんを中心に説明会が開かれました。
「片山平遺跡」は県道柳井玖珂線沿いにあり、伊陸盆地の北西に位置します。ここでは2つの水田約658.12㎡を調査し、堀立柱建物跡が4棟、土坑5基、溝5条、柱穴約90基が確認できました。4棟の内1棟は構造上作業用の小屋と考えられ、2棟は、2間×4間のしっかりとした建物跡でした。この遺跡の中心となる時代は、鎌倉時代の特徴的な土器である足鍋の足の部分が出土したことから、鎌倉時代と判断されました。遺物の量が少ないことや河川近くの低地に近いことなどから、農作業を生業とする人々の住居と考えられます。
「松成東遺跡」は県道光日積線沿いにあり、伊陸盆地の南西に位置します。ここでは3つの水田約1,401.90㎡を調査し、堀立柱建物2棟、溝10条、土坑27基(内5基がお墓と考えられる)、柱穴130基が検出されました。この遺跡の時代も鎌倉時代でした。
「松成東遺跡」で発見された特徴的な遺構はお墓です。2つの墓壙内からほぼ完形の土師器(はじき)の坏4個が検出されました。当時は亡くなった人の肩辺りに生前使っていた坏(皿など)を置いて供養していたそうです。また別の墓壙からは「和同開珎」によく似たお金が検出されています。また、土師器の皿を埋納した柱穴が2基確認されています。当時は建物を建て替える時に、柱を抜いた跡に皿を埋めて土地の神様に感謝をしたそうです。このことからこの辺りの住民は信仰心が厚かった事がうかがえます。
また、「日宋貿易」で輸入された青磁碗の欠片が検出されました。(800年以上経っていても、土を落とすとピカピカと光っていてとてもきれいです。)これはこの辺りに役所的な機能を持つ建物があったと推測されます。近くに「小南寺」という僧侶の養成所のような場所があったそうで関係性があるのかもしれません。
他には、網の重りとされる「土錘」が検出されました。近くの川で川魚を捕っていたのでしょう。当時の食生活まで垣間見る事ができます。
今回の発掘調査により、鎌倉時代には農業を生業とする集落が存在していたことが分かりました。当時の様子をイメージする事は容易ではありませんが、800年以上前からこの場所で生命の営みがあった事を知るだけでワクワクします。国営ほ場整備事業により土地の形状は変化しますが、結果を記録として保存することで次世代へ歴史を繋いでいく事ができます。遠い未来、私たちの今の生活に思いを馳せてくれる人がいる事を願い、「いま」を生きる事の重みを感じました。